物静かな彼は、貧乏長屋に住んでいて、風呂も便所も無い六畳に満たない殺風景な部屋には、裸のままの書籍が素っ気なく床に積まれている。


 カーテンの代わりにブルーシートが窓を覆っている、閑静と呼ぶには心苦しい、物音を立てる事が禁忌であるかのような重い静寂が支配する小さな空間を静かに見学した後、僕はその長屋の共同和式便所で排便し、玄関口で僅かばかり雑談した後、帰宅した。


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 彼を見るたびに、僕は「ヘルレイザー」の、ピンヘッドを思い起こす。
 単に、坊主頭だからである。


 僕にとって、「ヘルレイザー」と言えば、多くのファンが失望したであろう、サスペンスへと路線変更した5作目からが本物であった。
 2000年に公開された「ゲートオブインフェルノ」では、低予算故の出来が酷評されたものの、ピンヘッドを狂言回しとしながら、現実と虚構の狭間を、境界を曖昧に往き来するどこか冷徹な物語世界に、深く陶酔した記憶がある。
 主人公の刑事が、不可解な「何か」に呼び出されたアパートの一室で、部屋の真ん中に設置された望遠鏡越しに、無意味に殺戮シーンを見せつけられる、その無味乾燥な、只の暴力と呼ぶには余りにも性的で内向的で倒錯的な、その秩序立った不条理にどっぷり浸かりながら、永遠にこの世界を彷徨っていたいと、強く夢想していた。
 ピンヘッドはめくるめく快楽と禁忌の許容の世界への案内人であり、僕にとってはそこら辺のガバマンなんかより、よっぽどセックスシンボル足り得る存在だった。


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 目黒のクラブにて、ピンヘッドの仮装を見かけた。
 今日は、ハロウィンであるらしい。
 僕は、ハロウィンが大嫌いだ。
 そもそも馴染みが無いし、この手の行事は、ドン底で生産性も無い、ゴミのような青春時代を思い出す。
 だからかどうか分からないが、僕はその仮装を、とても不快に思う。
 家から出なければ良かったと後悔する。


 その仮装男を、今から、殺そうと思う。


 それは非常に甘美な、夢想だった。


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 連れに黙って帰宅してから、携帯から今日出会った人間の連絡先を全て消去した後、久し振りに、部屋で映画を見まくった。
 昔よく見ていた作品ばかりだ。
イレイザーヘッド」「ブルーベルベット」「ヴィデオドローム」「ゴッドアンドモンスター」「鮮血の美学」。


 ホラーを見る時の、正しい姿勢がある、これはフィクションであると強く意識し続ける事、そして同時に、これは決してフェアリーテイルではなく、瞬後私にも起こりうるリアルであると、はっきり認識する事である。
"Piss your pants"
 その暴力的な原風景に、この世が不条理なまま、ただ満たされていると感じる。
 それは確固たる、安堵だ。
 暴力も異常も彼岸ではなく、常に偏在している。
 いつ階上の中国人が、部屋に乗り込んできて暴れるとも限らない。
 いつかのその時の為に、部屋の扉は、常に開け放してある。


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 女性に一度だけ暴力を振るった事があり、確か二十四歳頃の事で、「SAW」が大好きだという所謂エセサブカルの塊みたいな女に、新宿のHUBで「キラーコンドーム」を執拗に薦められて、家に来たら見せてあげると言われた瞬間に、渾身の力で腹に膝蹴りを入れた。


 酔った勢いでという訳でもなく、機嫌が悪かった訳でもなく、自然に、冷静に、自動的に、僕はその行動に推移した。
 お陰で色々な人と縁を切る事になったが、驚く程に、後味が悪くなかった。


 一人だけ、まぁ気持ちは分かるんだよなぁ、と言う男友達が存在した。


 例えが悪いのかもしれないけどさ、要は「アルマゲドン」見て泣くような人間にはなりたくないって事だろ、でもやっぱお前間違ってるよ、岡本太郎がさ、ゲルニカを見て泣き崩れたって話知ってるか、俺いっぺん「アンダルシアの犬」を見ながら泣く女を見た事あってさ、シュルレアリスムは結構本気で勉強したつもりだったから、その女を本当に殺してやりたくなったんだけど、でもよくよく考えてみたらさ、岡本太郎もアンダルシアの女も、一緒なんじゃないかって気がするんだ、感極まって泣いたって事だろ、アルマゲドンだって一緒だよ、大事なのは感極まるって事であって、何で心が動いたかなんてのは、些細な事なんじゃないかな、最近すごくそう思うんだ。


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 長屋住まいの彼に、僕は言う、こんな部屋でよく生活出来るね、彼は答える、特に何も不足はないですけれどね。
 ここで静かに本を読んでいる時が、一番幸せですよ。


 僕はそれを聞いて、僅かばかりの嫉妬を抱く。


 彼は見るからに変人で、ただ歩いているだけで職質を受ける。
 僕はいつも、彼を馬鹿にする。
 周りも彼を、変人扱いする。
 彼は貧乏で、静かで、真面目で、常に誠実である。
 他人を侵さず、いつも一人で充ちている。


 ある人間が言う、いい大学を出たのに、どうしてあんなんで満足しているのか、本当に意味が分からない。
 僕は適当に相槌を打ちながら、そう言い放った男に対し、明確な殺意を抱く。
 そして、その場でその男を殺せない自分を、激しく嫌う。


 それは仮装男への殺意、或いはエセサブカル女への殺意と、恐らく同質の物だ。


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鮮血の美学」の扇情的なパッケージの裏に、申し訳なさげに貼りついていた裸のDVDには、"paris,texas"と油性ペンで書かれていた。
 これはもう、見る必要はない。
 十代の終盤、ビデオテープが擦り切れるまで、繰り返し見た記憶がある。


「小便小僧の恋物語」の上にダビングされたそのテープは、全てのカットが、脳内で完全に再現しきれるようになるまで、生命の切れるまで働き続け、何も上書かれる事の無いまま、完璧にその役目を果たし終えた。


パリ、テキサス」を見た事が無いのであれば、あなたはきっと、見た方が良い。
 細切れの思わせぶりな情景の連続が紡ぐのは、非常に普遍的で、どこまでいっても合理的になれない、人間の単純な一つの性質についてである。


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 制御不能で不可解な己の情動を、遠く遠くから俯瞰する時、それがどれ程醜く、不誠実で、拙い感情であっても、ただ距離をひたすらに置いて眺めるだけで、全く違う情緒が、別の所から湧き起こる。
 それは一般的に言うのであれば、郷愁であり、もっと直接的に言うのであれば、陶酔であり、つまり、非常に原始的な、快楽の衝動である。


 遥か昔、人は喜びも悲しみも、ひたぶるに心が動かされることをただ総じて、一言「あはれ」と表した。


 あなたが持っているかも知れない、他人を幸せにしたいだとか、成功したいだとか、夢を叶えたいだとかいう常識に基づいた真っ当な欲望は、六畳一間で本に囲まれている時に感じる安堵や、望遠鏡越しに殺人を眺める刑事の絶望や、受け容れられぬ他人を殺したいという狂気と、等価であるという物の見方が、この世にはある。


 六畳に住む坊主は、裕福でスマートで、いつも皆の憧れであり、
 ドナルド・トランプは、正義のジャンヌダルクであり、弱者の希望の火炎瓶であり、
 血塗れのピンヘッドは、きっとPLAYBOYの表紙を飾るだろう。


 何もおかしい事は無い。
 何もが起こり得るし、何もかもがストレートだ。
 隣人はあなたを殺すかも知れないし、あなたが隣人を殺すのかも知れない。
 虚飾は無く、全てが、ありのままに、事実である。


 そういう基準の中で、我々は生きている。
 しかして、我々とは一体誰の事なのか、僕には果たして、全く分からない。