南泉斬猫という有名な公案があって、ある禅寺で畜生に仏性が存在するかの議論になった際、近くに居た子猫を捕らえて南泉僧達に曰く、道得ば即ち救わん、道得ずんば即ち斬却せん、理を示せ、さもなくば子猫を切ると迫り、衆これに対する事能わず、南泉はついに子猫を斬る。
 その後、趙州という僧が寺に戻ってきた際に、南泉が同じ問いを投げかけたところ、趙州は履いていた草鞋を頭に乗せ黙ってその場を去った。
 南泉之を見て曰く、子若し在らば、即ち猫児を救い得たらん。


 20代前半の頃、大学を留年し続け、仕事に明け暮れていた僕が、唯一持っていた文学的な交流が、国文学の授業から派生した「二文シネマ会」と称された飲み会だった。
 機械を憎悪する国文学狂、自称ホスト、将来の見えない哲学者志望、親の金で赤字音楽活動を続けているオカマのシャンソン歌手、マッチョでプアな郵便配達員等、個性豊かな社会不適合者が寄り集い、東武練馬のワーナーマイカルでその時に興行1位と思われる映画を見た後に、近くのお好み焼き屋で、裏メニューの焼きナスに舌鼓を打ちながら、その作品の批判合戦を繰り返し、物質主義を貶しまくるという、意味の分からない会合だった。


 その中に、仏教徒がいた。
 短髪で痩せこけていて長身で、質素な格好で酒も飲まず、煙草も吸わず、小食で可能な限り肉食をせず、いつも薄い笑みを浮かべて人の話を黙って聞いている彼は、宗派は何?とかそういう質問についても一切答えず、ただ、私は大枠で仏教徒なんです、と答えるばかりだった。
 我々は彼の事を、何かの新興宗教にでもハマっているのだろうと認識していた。


 その日は確か、マトリックスの二作目だかを見た筈だ。
 劇中に出てきた、所謂米人の勘違いした日本文化を凝縮したような瞑想場面の話になり、その流れから禅、着いて何故か「南泉斬猫」の話になった。    
 そもそも僧が猫を斬るという所からして感覚が分からないし、凄くローカルなナレッジに依存していそうで兎に角鼻もちがならない、というシャンソン歌手に対し、国文学狂曰く、禅っていうのは仏門とは少し毛色が違う、信仰から派生して、目的が途中で哲学的な真理追求にシフトした結果、極右的なハードコアに発展したものであるとの見解を述べると、いえそれは全く違いますと、会合設立以来初めてぐらいの勢いで、仏教徒が突然口を開いたのである。


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「そもそも仏教は、根本的には、生殺与奪を否定しておりません。
 宗教には、常に二つの側面があると、私は考えております。
 所謂、本音と建前と申すもので、建前としては人に規範を課しますが、これは言わば国教としての体裁、つまり政治的な側面で、誤解を恐れずに言うのであれば、衆を統治しようとする為の詭弁です。
 そしてこれは、時代や世相によって、簡単に変遷します。
 その一方、本音では、人のあらゆる行為を、どこまでも肯定します。
 人だけではありません、森羅万象、あらゆる前世、今世、来世を含めて、在るがままに肯定します。
 教義というものは、対する者が「集」であるか「個」であるかによって、その振る舞いを自在に変えるのです。
 遠藤周作の、「沈黙」という作品を御存じでしょうか。
 あれは、そうした「集」と「個」での教義の振る舞いの差を埋められぬ、宗教人の葛藤を非常に良く描いております。」


「例えば、猫を斬るという行為を、一般で捉えると、確かに悪となるかも知れません。
 では悪とは何か。
 猫を斬るのが悪であるならば、虫を踏む事は、草を食む事はどうでしょう。
 我々は何を基準に、他の命のどこまでを殺める事が許されるのでしょうか。
 人は、基準を求めます。
 これを論理ではなく道理で説くのが、宗教の「集」の側面です。
 その一方、規範からはみ出た者を赦す、これも宗教の役割です。
 猫を斬る者が許されぬ社会で、猫を斬ってしまった者を、論理ではなく、道理で赦す。
 これが宗教における「個」の側面であり、この「集」と「個」の一見背反する概念の両立こそ、宗教が「政」つまり「まつりごと」ではなく、また「制」つまり「制度」とも違う、「聖」なるもの、である事の最もたる所以でもあります。」


「つまる所、問いの為に坊主が猫を斬る、というのは、仏教では有り得るのです。
 というより、「猫を斬る坊主」を決して否定しないのです。
 言うなれば、「そういう事もあるだろう」という感覚です。
「起こった事」は、「善い事」でも「悪い事」でもなく、ただ「起こった事」であります。
「仏のみぞ知る」と言うように表す事もありますが、その真意は、「森羅万象、人の埒外にあり、あらゆる生が、在るがままに存在する事が、人知を超えたところで許容されている」という事です。」


南泉斬猫が面白い所は、坊主が猫を斬った事でも、鞋を頭に乗せる不条理さでも無いと、私は考えております。
 この公案が、これ程人の俎上に上がるのは、唯一点、議論に対し、倫理や禁忌に触れた極論が突き付けられるという状況設定に尽きており、そしてその状況が比較的時代を問わず、普遍的に人類文化の根源問題として適用し得る所にあるのではないかと思っているのです。     
 例えば、中国の犬食文化に対し、もう何十年も海外の動物保護団体が痛烈な批判を繰り返しています。」


 知っています、と僕はそこで口を挟んだ。


 僕が滞米していた90年代後半の僅か二年間の間にでも、CNNは少なくとも2回以上、犬食文化に対し、「友を殺すな」という強い批判的なメッセージを込めた報道を発信した。
 僕の知る日本人コミュニティ達は、その異文化に対する無礼な態度に一様に怒りを表したが、周りの現地人の反応は並べて報道に同調を示すものばかりだった。
 Kマートでステーキ用の汚い牛肉を買っている際に、典型的なピザイーターに、モンキーそれは犬じゃねぇよ、と声をかけられた事は数知れない。
 近所にあったチャイニーズデリバリーの店は、半年に一回程の頻度で、店先に何かの糞尿を大量にばら撒かれていた。
 現地の友達は、僕が教えたイヌチクショーという言葉の響きが面白かったのか、そのデリバリーにホットシュリンプを注文する電話を掛ける度に、その単語を連発した。
 もちろん僕もそれを見て笑っていた。
 テネシー州スィートウォーターは、その広大な自然に相応しく、紛れの無い未開の地であった。
 そこにはそもそも、文化が存在していなかった。


 そういう話をすると、仏教徒は、浅く何度も頷いた。


「畜生に「仏性」はあるか。
 仏性とは何か。
 仏性とは、極端に言うと、「食ってよいか、否か」という事であります。
 宗教はいつの世も、「我々が共存する範囲を、国境以外で規定する物」であります。
 故に宗教は巨大になる際に必ず、集団管理の概念に辿り着き、権力との融合を果たすフェーズが訪れる事になる。
 国教に匹敵する教義にはいつも必ず、「個」を蔑ろにした「集」の理念というべき物が存在します。
 最初に僧達が議論していた事は、言うなれば「集に於ける規定」を「個がどこまで真摯に受け入れるべきか」と言えるでしょう。」


「答えはシンプルです。
 それは「個人の好み次第」です。
 例えば私はトマトが嫌いで、食べると顔が真っ赤になってしまうんですが、それと全く同じ事なのです。
 彼らの誤謬は、ただの個人の嗜好についての規範を、集に於ける唯一な真理が存在するという前提で議論してしまった事にあるのです。」


「この種の議論は「集」と「個」の視点を意識しながら、両者の間を頻繁に移動しない限り、結論に至る事が出来ません。
 しかし宗教家は、この「集」と「個」の区別を言語化する事が出来ません。
 禁忌として、出来ないのです。
 それは宗教が、論理ではなく、道理だからです。
 想像して下さい、斬猫を法として禁じておきながら、それを犯した者を簡単に赦す社会を。
 成り立つ訳が無いのです。
 だから宗教は論理では成り立たないのです。
 経験則や奇蹟譚に依存し、道理で人を納得させるのです。
 思索を深め、何よりも個人の納得を追求する禅において、「集」の視点を捨て去る事は、絶対です。
 しかし、宗教家がそれを論として口に出す事は出来ない。
 だから南泉は、「こういう事も集に於いては自然だ」と示す為に猫を斬り、趙州は、自らのナンセンスな行為を、斬猫と「集に於いて等価である」と示したのだと思うのです。」


「これは宗教家の涙であり、深い絶望を示す話であるように、私は思うのです。
 そして実は私は、その絶望に耐え切れず、仏門から逃げ出した人間なのです。」


「私は、例えば、ジョンレノンが嫌いです。
 学生時代、「想像しよう、国境の無い世界を」などと教師に歌わされ、そしてそれに抗えなかった自分が許せませんでした。
 その世界に、きっと私は居ない。
 その確信があったからです。
 そしてそうした自分の思考が、ともすれば反社会的と捉えられ、きっと迫害を受けるであろう、こう妄想し、世俗を憎みました。
 かといって反体制を気取る訳にもいかぬ、私は拙い頭脳しか持たず、他にどうしようもなく、仏門に駆け込んだのです。
 勿論そこに望む答えがある訳でもありませんでした。
 出家も叶わず、仏門からも逃げ出し、中途半端に世俗を拒みながらも、こうしてふらふらと在野している次第なのです。」


「私はただ受け容れられたい、力も持てない、寂しいだけの畜生なのでしょう。
 だからこうして今夜、皆さんと話し合えた事、このような夜の経験が、きっとかけがえのない思い出になる事でしょう。
 本当に、皆さん、ありがとうございます。
 もしよろしければ、乾杯をさせて頂きたい。」


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 そうして我々はお互いに肩を抱き合い同志よと絶叫し閑静な東武練馬の住宅街にimagineの大合唱を一晩中響き渡らせた挙句イオン前派出所の屋根に全員でよじ登りフリークスのフリークスによるフリークスの為の日本国建立の詔を宣った結果僅か3時間のお巡りさんの説教だけで奇跡的に我が家への生還を果たす事が可能となったのである